天安門広場から北西約20km離れる頤和園(いわえん)は、1750年に築造が始められ、西太后の政権時代に数回も再建され、中国古代の皇室園林建築の代表作とも言える。
頤和園の前身は清奇園であり、清時代(1644〜1912)の初めごろ、清朝宮廷の養馬場として牧草地にされている。1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、乾隆帝が西湖を掘削し、また西山、玉泉山、瓮山を造営することを命じ、漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み西湖を昆明湖に、瓮山を万寿山に改称した。1764年(乾隆29年)、白銀448余万両の費用を費やした清奇園が完成されたが、園内には居住及び政務施設が極めて乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。道光年間以降は国力の衰退に伴い清奇園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により焼失してしまった。
1886年から1895年(光緒12年から21年)にかけて、西太后は隠居後の居所として、光緒帝の名により清奇園の再建を命令した。しかし経費の問題より修復は前山建築群に限定され、その造営も北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用されたことで日清戦争敗北の原因の一つとも言われる程、清朝には大きな負担となった。庭園は再建され頤和園と改称され、離宮として西太后の避暑地に利用された。1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧するため出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902年(光緒28年)に再度修復されていた。
頤和園は中国北方の山川の雄壮さや、江南水郷の秀美さ、皇居の華麗さ、そして民間の邸宅の精緻さなどをそなえ、中国で最も美しくて、最も有名な古典庭園とは言える。園内には宮殿区、万寿山と昆明湖など三つの区域に分けられ、敷地面積は290ヘクタール。
東宮門から入ると、仁寿殿を中心とした宮殿区が見えてくる。仁寿殿は皇帝が政務を執る所、玉瀾堂は西太后が光緒帝を幽閉した所である。光緒帝の皇后は玉瀾堂の後ろにある宜雲館に住んでいた。その北西にある楽寿堂は西太后が住んでいた所である。仁寿殿の北にある徳和園は清の時代に建てられた最大の芝居の舞台。
楽寿堂西の邀月門を通ると、長さ728メートルの長廊のところに着く。これは中国庭園建築の中でも最も長い回廊で、昆明湖の北岸に沿って西に伸び、五色の帯のように庭園内の建築物を繋げている。回廊に描かれてある8000枚以上の絵は中国の歴史物語の題材を取り上げたもので、中国の伝統文化を提示する場所となっている。
排雲殿は山の地勢に沿って万寿山の南側に建てられ、階段を登っていくと、万寿山の最大の建築物である仏香閣にたどり着く。八角かつ四重の屋根で築きあげた仏香閣は頤和園のシンボル的な建物である。仏香閣の東には転輪蔵、西には207トンの銅で造られた宝雲閣がある。万寿山の頂上には「智慧海」と呼ばれる梁のない長屋、山の後ろにはチベット仏教の寺である「八部神州」、裏山の麓には昔の商店街である蘇州街がある。
万寿山の南に水面が広める昆明湖があり、杭州の西湖を再現してある。湖面に竜王廟、十七孔橋、玉帯橋などは散在し、借景を活用した園外の西山や、玉泉山の宝塔などもすべて頤和園の中に溶け込まれ、頤和園の景色を巧みに変化させている。