西漢元帝建昭2年(紀元前37年)、朱蒙が高句麗県(今の遼寧省新賓県内)に建国し、その後ホ亘仁県(遼寧省内)の五女山城を都にし、西暦3年に丸都山城(今の吉林省集安市内)へ遷都。その後国内城(平原上の城。今の吉林省集安市内)に移り、427年北朝鮮の平壌に再び遷都した。668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた。
2004年、高句麗前期の遺跡として世界文化遺産に登録された。
今回の登録では高句麗の王族、貴族の墳墓38基、好太王碑1基、将軍塚1基が指定された。
同時に、高句麗後期の古墳群(北朝鮮の平壌、南浦などに所在)も世界遺産に登録された。
7000余りの高句麗時代の墓が王城の外に分布し、多くの墓室内に神話格調の綺麗な壁画がたくさんあり、1600年以上の歳月を経ても、色彩がまだ鮮やかである。特に将軍塚と太王陵など王族、貴族陵墓の壁画は、高句麗王朝の歴史をよく反映できてある。
将軍塚は龍山の麓(集安城東北4キロ)にあり、20代目の長寿王の墓である。塚の形はエジプトの法王陵墓によく似ているため、「東方ピラミド」との美称を得た。将軍塚台座の長さは31メートル、高さは12メートルある。7階の階段を持つこの陵墓は雄大さと威厳さをうまく示せるし、明快な造形は高句麗の建築工法と芸術レベルの結晶とも言える。
好太王碑は長寿王が19代目の好太王を紀念するために、正方形で高さ6メートルの1枚石で建てたもの。石碑の四面に1775字の漢文が浮き彫られ、好太王の功績、高句麗の起源及び政権の建立などが記述されてある。